「鬼の研究」読了

鬼の研究 (ちくま文庫)

鬼の研究 (ちくま文庫)

読了とか言いながら、見返してみると記憶にないページがごっそり。
あれ?なんで?読み逃してる? 再読…(笑)
とりあえず興味を惹いたものをピックアップ。
まず博多っ子としては菅原道真公ははずせないところでありまして。梅が枝餅大好き。

  • 政治的抗争に敗れ筑紫左遷、ついで病死。

晩年、死んだはずの道真公が師弟の間柄である延暦寺の座主法性坊尊意を訪れ、

無実の罪の晴れやらぬ怒りに雷電となって、神仏の許しを得て、自分に辛くあたった公卿たちを蹴り殺そうと思う。
そのとき天皇雷電を鎮めるため尊意の参内を求めるであろうが(中略)よしみを重んじて決して参内なさらぬように

と頼むが、

「昔のよしみは尊いが、君命ならば三度求められればどうして参内せぬわけにいこうか」と断られる。
んで、不快のありさまをあらわにして八つ当たりして帰り、その後90年間にわたって道真公の祟りが続くわけですが、
蹴り殺すのか…。 アグレッシブな。

  • 次に有名どころで「鉄輪の女」のハナシ。 いわゆる「牛の刻参り」ですな。

ある公卿の女、あまりに妬み深く、貴船に七日篭り鬼になることを求めたところ、宇治の川瀬に潔斎して鬼となるよう示現があった。女は喜んで、丈なす髪を五つに分け、五つの角に擬して結いあげ、顔には朱をさし、身には丹を塗り、鉄輪を戴き、その三つの脚には松明をともし、さらに松明に火をつけて口にくわえ、夜更けてのち大和大路へ走り出でて南をさして行った。頭より松明の炎はふき流れ、眉太く鉄漿(かね)ぐろに、顔も赤く、身も赤いのでそれはそのまま鬼であったが、ついに宇治川に二十一日間浸り清まって、生きながら本当の鬼となったという。

かなり恐ろしいですね。このビジュアル。さらに能の舞台経過の上では、呪術に使われているうわなりの髪を手にからまいて、憤怒の情を打ち付けるというすさまじい一場面があるそうです。
しかし、この鬼は

「捨てられて、思う思ひの涙に沈み、人を恨み、夫(つま)をかこち、或時は恋しく、又は怨めしく、起きても寝ても忘れぬ思ひの、因果は今ぞと白雪の消えなん命は今宵ぞ、痛はしや」と、恋着と恨みのはて、ついに女は男を殺す事が出来ず引き返してゆく。捨てられた怨み、離れて生きる恋しさなどを、つくづくとつらね口説いたのち、やっと「白雪の消えなん命は今宵」と急迫して迫りながら、その一瞬、怒涛のような愛がかえってきて、「痛はしや」と、急転して涙をあふれさせざるを得ない。

と、最後に殺そうとする直前でわれに返り、わが身を振り返り涙する。切ない。

  • また、鬼とは別に人々から恐れられていたモノとして天狗や山姥も取り上げられており、なかなか面白いです。

「女の身のこと、大かた若き時は父にしたがひ、人となっては夫にしたがひ、老いては子にしたがうなり」などという庭訓が行われていた時代に、このようにして三従の美徳に生きる事を強いられた女が、あらゆる現実の条件を捨てて<鬼>となるという事の中にもっとも複雑に屈折せざるを得なかった時代の苦悶を象徴的に見てとることも可能である。

というように、鬼とは単なる加害者ではなく、加害者として排斥されたモノとはなんだったのかを鬼に近づきその心情を探っている。
キリスト教における邪教がそうであるように、日本に仏教が伝来し広まっていた時代に淘汰されたものとしての外法として、鬼や天狗がある。
宗教とは元来、個と世界のための哲学であるはずなのに肥大化するにしたがい信仰として社会に組み込まれてしまい、コミュニティとして機能せざるをえなくなるとか、そんなコトをつらつらと思いました。 まとまらず。
あとがき読んで「魔の系譜」に興味を持つ。 読みたい…でも読めない。 アンビバレンツ。(ちがいます)