「素粒子」読了。

もう、ほとんどうろ覚え状態でナントカ読み終わりました。あれ、結局どっちがブリュノで、どっちがミシェルだっけか(ォィ)
文学青年崩れの国語教師ブリュノとノーベル賞クラスの分子生物学者ミシェルの異父兄弟が織り成す、希薄で怠惰な現代世界の一面を映し出す、悲哀と絶望の果てのペーソスが胸を刺す近年最大の話題作――だそうです。
もうね、この2人がなんつーかもてないって言うか、人付き合いがうまくいかないって言うか、時代が移り変わり行く瞬間の混沌とした社会に翻弄されて、その中で足掻いていく感じですよ。その足掻いた先がSFでした。この結末をユートピアととるか、デストピアととるかは、まァ人それぞれでしょ。自分は…どうなんかなー。考え中。
色々気になって付箋をつけたトコをちょこちょこ書き出してみる。

純粋道徳とは唯一、普遍的なものなのである。時が移ろっても変化しないし、何かがそこに付け加わることもない。いかなる歴史的、経済的、社会学的、文化的要素にも支配されない。全く何物にも支配されないのである。何ら限定を受けず、全てを決定する。何物にも条件付けられず、全てを条件付ける。要するに、絶対的なるもの。
実地に観察できる道徳とは、純粋道徳と、他のいささか出所の不確かな要素、多くの場合は宗教的な要素とが、様々な割合で混ざり合った結果なのである。その道徳のうち純粋道徳の占める割合が大きければ大きいほど、道徳の支えとなる社会は長く幸福を教授できる。究極的には普遍道徳の原理のみが支配する社会ならば、世界の終りまで存続するであろう。

今考えると、これ伏線だわ。

(前略)セックスは、ひとたび生殖から切り離されたなら、快楽原則としてではなく、ナルシシズム的な差異化の原理として存続するということが彼には理解できなかった。富への欲望に関しても同じことさ。スウェーデン社会民主主義モデルが、ついに自由主義モデルを凌駕できなかったのはなぜなのか?それが性的満足の領域においては試みられることさえなかったのはなぜなのか?近代科学によって引き起こされた形而上学的変動が、個人主義化、虚栄心、憎しみ、そして欲望をもたらしたからさ。

これが上記引用部と対照的な今現在ってことか?

(前略)歳をとるっていうのはきっとこういうことなんだろう。感情的反応が鈍り、恨みも喜びも長続きしなくなるんだ。そのかわり体のあちこちの調子、バランスが崩れていないかどうかばかりがきになりだす。

四苦八苦の四苦、「生老病死」か?考えすぎか。

誰もが頭の中に単純な未来図を描いている。要するにいつかは、人生からなお期待しうる肉体的快楽の総量が、苦痛の総量を下回るときが来る(つまり現代人は心の奥底でカウンターが回っているのを感じているのだ――そしてカウンターは常に一方向にしか進まない)。快楽と苦痛を巡って、遅かれ早かれ誰しもこうした理性的考察をめぐらさないわけにはいかず、その結果年配の人間は自殺の観念に必ずや突き当たる。

上と似たようなものか。

こんな寓話を考えてみてもいい。ごく少人数からなるグループ――地球上でせいぜい数百人――がこんなんきわまる、非常に抽象的で、素人には全く理解できない研究に精魂傾けているとする。そのグループのことを他の人類は知るよしもない。彼らは権力も、財産も、名誉も得られない。研究に励むことで彼らが得ている歓びのことなど、誰にも理解すらできない。しかしながら彼らこそは世界で最も重要な勢力なのだ。というのもごく単純な、ささやかな理由ゆえにだ――つまり彼らが合理的確実性の鍵を握っているのだから。彼らが真実であると主張する一切の事柄は、遅かれ早かれ人類全体の認めるところとなる。いかなる経済的、政治的、社会的、宗教的勢力といえども、合理的確実性の明白さを前にしては屈服せざるをえない。

これは一番上に引用したものへと繋がるのかな。それを研究するもの達を指すのか。


この作品に手を出した理由は本田徹の「脳内恋愛のすすめ」にて引用されていたので。映画版はラストが少し違うらしい。

素粒子 (ちくま文庫)

素粒子 (ちくま文庫)

さて、次は「虎よ、虎よ! (ハヤカワ文庫 SF ヘ 1-2)」を読むかしら。
その前にMG 1/100 MS-18E ケンプファー (機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争)を組上げるか…。


どうも今日はサーバの調子が悪いらしく、ネットに繋がったり繋がらなかったり…。