「ゲーム的リアリズムの誕生」読了。

あとEver17 -the out of infinity-Premium Edition (Playstation2)の分析で思いっきりネタバレする。いやまあ、前もって言われてはいたんですが。
忘れた頃にプレイしようと思います。
ひぐらしのなく頃に」の分析において

一方では、コミュニケーション志向メディアでありつつ、コンテンツ志向メディアとして読まれようとする傾向を極限まで推し進めた「小説のようなゲーム」でありながら、他方では、その結果として生まれた世界に、再びコミュニケーション志向メディアの世界観を招きいれようとする「ゲームのような小説」であるという二重の性格をそなえている。つまりはこの作品は、ゲームとして一度大きく退化し、その上で再びゲーム的経験の作品化を試みるという、「ゲームのような小説のようなゲーム」とでも呼ばれるべき作品なのだ。

とのこと。 なんやややこしいけども面白い。
またメタ構造で個人的に思いつく舞城王太郎九十九十九 (講談社ノベルス)についてもわかりやすく解説。
章を重ねるごとに前の物語が「小説」として作中作に変化するという基本構造。
そしてある章からその章の主人公が自分の物語をリセットしてひとつ前の章をリトライするというわかりにくかった話。
トリビュート元の清涼院流水からして一筋縄でいかない流水大説なのになおかつメフィスト賞受賞作でも一、二を争う実力派異端作家(っていうか、メフィ賞作家は基本的にそんなのばっか)がお得意のドライブ感でメタ構造を疾走するのだからアテクシのオツムじゃ理解まで早々及びませんわな。 それでいいのか本好きとして。
今、ついでに棚から出して1ページ読んでみたら軽く2,3ページ読んでしまいました。そして今見返してみたらまた2ページほど読んでしまいました。舞城王太郎オソルベシ。
 積読たまっとるのに再読しとる暇ないっちゅうねん。 まぁ、それもどうかと思うけど。

小学館のSTAYシリーズで西炯子を知ったんだけど、結構なベテランだったのね。
この作家もコンプリートは難しそうだなァ。小学館から出てるのも入手困難そうだったし。
そのうちまんだらけにでも行くか…。 松尾スズキいわく「むやみにでかい福岡のまんだらけ」に。

いやー植物の基礎知識がないとちょっと辛いかも。くじけそう。(それでも農家か)
なおかつ700何年だの800何年だの文献出されても漢字が読めねーわ、どんな植物かわかんねーわ、
瑞兆として様々な例が取りざたされているんだけど、どういう状態なのかほとんどわかんねーわ。大丈夫かオレ。
でも「稲」の語源についての考察は面白かった。

稲の語源について、飯根から来たとか、命の根から来たとか、あるいは息根、活根から来たとかいう説もあるが、附会の説のように思われる。稲は梵語ではウリヒであり、今もテグレー語ではウリルー、シンハリス語ではウルヰ、サンタル語ではウーリ、アフガニスタン語ではウルシであり、アラビア語ではウルズである。ラテン語のオリザやポルトガルスペイン語のアロース、英語のライス、仏語のリー、伊語のリーゾ、ノルウェー語のリースなどはそれぞれ発音表示は多少違うが、梵語がその語源である。マレー語のブラスもまた梵語に起源があり、台湾の原住民ピューマ族卑南社もブラスと称している。日本では梵語のウリヒから転じてウルシネが出ているがこの宇流之禰(ウルシネ)はのちには粳(ウルチ)を指すようになった。稲の総称としては之禰(シネ)から転じてイネの語が出たものらしい。稲の南方起源である事は言語学的にも証明される。

とのこと。 梵語ってなんだ。サンスクリット語だっけか。命の根や活根はいいなァ。
テグレー語やシンハリス語、サンタル語ってなんだ。どこの国なんだ。 面白い。