2冊読了。

前者は町田康のエッセイシリーズ。前巻で背表紙のイラストが完結してたので続き出るかなーと思ってたら装丁変えて出やがった。んでタイトルも「おそれずにたちむかえ」って付加してあるんだけど何故かamazonでは「テースト・オブ・苦虫5」としか出ません。不思議。内容はいつものゴトク社会や身の回りのことで気になったことを取り上げ、このままじゃいかんと行動を起こすんだけどソコはしがないパンク作家(という自己韜晦)な身分のためどうにもチグハグな行動と不条理な世間に埒が明かずグダグダになる。うくく。前回「空気を読む」云々のエピソードが印象に残りましたが、今巻では小学生の同級生殺害におけるフィクションの責任について本当に思うところがあったのだろう、上記の体裁をとらずボケもオチも無しにマトモに考察している。(何か失礼な書き方だな) フィクションの責任として安易に取りざたされるのが惨酷描写の規制についてであるが、ソレは本質的な問題ではなく、真に問題なのはフィクションの分かりやすさ。つまりはディティールの簡略化であると。先日読んだ「恋愛小説ふいんき語り」の「恋空」についての鼎談で「ディティールが一切ない」ってコトが取り上げられていた。このようなシンプルなフィクションが氾濫するとどうなるかというと文中曰く

人間が動物と違うのは神や法律というフィクションを拵え、そのフィクションを模範に生きているという点で、人間は常にフィクションに影響されて現実を生きている。そのフィクションがかく粗雑になると当然、それは具体的な人間の行動に影響を与える。
どういう影響があるかというと、問題の渦中にあって自分は絶対的善、相手が絶対的悪と粗雑に思ってしまったり、未熟なものであればあるほど絶対的悪は目の前から消すしかないのだ、と思い込んでしまうなどの影響が当然これはある。

とのこと。エンタテイメントの一種としての勧善懲悪を模範的フィクションとして消化してしまう阿呆が増えたってコトか。「海のトリトン」を観やがれと思いました。


まァ自分視てないけど。

  • そして後者。乙一荒木飛呂彦のまさかのコラボレーション。よくよく考えたら単なるJOJOノベライズなんですが、がっつりのせられました。後書きで乙一が書いてるようにジョジョのノベライズなんてジャンプJブックスで既に2冊出とるっちゅーねん。まァ出来はおして知るべしですが。一応購読した。

まァそれはともかく、第4部。「クレイジーダイヤモンドは砕けない」のノベライズ。オリジナルで。生まれてから全てのことを記憶する少年の復讐譚。に巻き込まれた仗助。完全に巻き込まれ型です。岸辺露伴が好奇心をもたげなかったら何の接点もなかったでしょう。そう考えるとやっぱ相性悪いなこの2人は。所々にジョジョネタが盛り込まれててニヤリ。パンの枚数とか、肉の芽とか。あといくつかあったような…忘れた。(今読み終わったのに) また作中に2回ほど作者が地の文で唐突に出てきます。そのうち一つに第4部の回収されなかった謎。「仗助の髪型の元となった人物」について憶測を立ててました。その中でファンの間でもっとも信頼性のあった説として「敵のスタンド攻撃によって過去に飛ばされた仗助自身」と言うものがあったそうで、なるほどねー。んじゃ、もうソレでいいよ。おい。まァジョジョシリーズは雰囲気優先で忘れられた伏線や設定が多々あるからなァ。有名なトコでは宇宙に飛ばされたカーズや、個人的にはDIOのハーミット・パープル能力とか。 さて、作品の感想ですが、とりあえずラストは黒乙一でした。あれ、コレって法律上っつか倫理上ありだっけ?何か最近、規制緩和でフィクション表現としてはオッケーになったって小耳に挟みましたが、いやー嫌な引っ繰り返し方でした。ちょっと消化しにくいけど。まァおもしろうございマシタ。
ちなみに、この本、何故か書店に入荷の時点でシュリンクがかかってて、小説なのに何で?とか思ってたんですが、開封して所謂カバーがないことが判明。かつ、バーコードやISBNがオビにしか印字されておらず、ソレをとると一見一文字も日本語の印字されていない本になっちゃいます。んで、作中で「はてしない物語」について語るシーンがあって、きっとコレを意識したのだろうと思いました。文筆業としてこの装丁が通るのはなかなか嬉しいんじゃなかろうか。

The Book 〜jojo's bizarre adventure 4th another day〜

The Book 〜jojo's bizarre adventure 4th another day〜