「文章読本さん江」れびゅー。

  • 先日後回しにしてたレビュー。

文章読本さん江 (ちくま文庫)

文章読本さん江 (ちくま文庫)

いわゆる「文章読本」について書かれた本。って言うか、「文章読本」って読んだことない。文章の書き方指南の本のことだそうで。
この本買ったのは作者買いです。「趣味は読書。 (ちくま文庫)」を読んで面白かったんで、文庫新刊を見かけて衝動買い。大当たりでした。他の作品も買おうかなァ。
んでもって、この本、何が面白いかって、構成が上手い。まず、第一章で、膨大なる冊数が出版されている「文章読本」の内容の特色を、挨拶文からタイプ別に分け、それぞれのスタンスを浮き彫りにしてわかりやすくまとめる。
例えば最初に取り上げる挨拶文は「恐喝型の挨拶文」で、よくある「最近の若者は…」的な挨拶文。このスタンスを、「文章読本」が教える文章の書き方に従い、起承転結でまとめたのが以下。

[起]若い諸君の文章力が低下していると聞く(慨嘆)
[承]そうなってしまうのはやむをえない面もある(理解)
[転]しかし、人生は文章なしでやっていけないものである(脅迫)
[結]諸君のために、私が文章読本を書くことにした(結論)

とまァ、こんな風に、実に解りやすく、著者の見え隠れするホンネを浮き彫りにしちゃうわけで、何かに似てるなーと思ったら、あれだ。社会学者の詐術的なレトリックを社会学的レトリックを用いて暴く、戯作者パオロ・マッツァリーノの「反社会学講座」と一緒だ。そりゃはまるわ、俺。
そして、文章読本のスタンスを分け、今度は新旧それぞれ3人の代表的文章読本を取り上げ、それぞれのスタンスを分析。まず御三家は谷崎潤一郎と、三島由紀夫と、清水幾太郎新御三家本田勝一丸谷才一井上ひさし。それぞれの主張をまとめ、「シンプル志向orレトリック志向、ナチュラル主義or反ナチュラル主義」の組み合わせと、著者による個性的な特徴の付加で分けた。
んで、この話のときに笑ったのが、新御三家丸谷才一が、「ちょっと気取って書け」とのアドバイスと共に引用した膨大な文例が古文やら擬古文、漢文の山で、<文句のつけやうのない傑作>と絶賛している。と丸谷才一は自著を全編にわたって旧仮名遣いで述べているんだけど、これに感染して、このあとの斉藤美奈子の文章が、この段落が終わるまでずっと旧仮名遣いになっとる。ちょ、読みにくいって(笑)
しかも、この章、最後に紹介した井上ひさしによって、「文章読本」自体の存在を否定されるオチ。そして次章では、では何故、これほどまでに文章読本が新造されるかを解く。
もう、このサイクルの答えは冒頭で結論出してます。こういう風に。

文章読本には、数多く読めば読むほど自前の文章読本を製造したくなる(略)すなわちこういうことではないかと思う。
(A)自分と同じ意見に出会う → 自信が湧いてつい人に教授したくなる (自慢)
(B)自分と異なる意見に出会う → カチンときてつい反論したくなる (反発)
(C)自分の知らなかった意見に出会う → 感動のあまりつい人に吹聴したくなる (伝道)
(D)自分の意見がどこにもないことに気付く → これはいわねばとの思いが募る (発奮)

うわー、どうあっても出口は一緒ですね。って言うか、これ、文章読本に限らずあらゆる表現がこの4つで分けれますね。
それで、では何故、文章読本が生み出されたかってコトになると、起源は「言文一致体」のはじまりまで遡ることになります。
ちなみにこの「言文一致体」の当時に様々な論争が起こり、多用な文体が提唱されていたらしいんですが、その中で「語尾が全部ござるになる」とか、「接続詞のは、へ、をがわ、え、おになり、母音が長音になる」等の文体の紹介の時、またその文体が伝染してて笑える。って言うか、読みにくいんだってば(笑)
そして読本が生み出された経緯がわかると、そこから冒頭の谷崎潤一郎の「文章読本」の登場に繋がる。ココの展開でエウレカしました。
張り巡らされたシナプスが一気に繋がった感じ。この感動は読書の醍醐味ですね。思わぬ衝撃でした。
これはいい名著。


ちなみに文庫版後書きには、ついつい「文章読本」を書いてしまった人、書きそうになった人、書いている人からの解説(?)が寄稿されていて、それぞれ泣いたり笑ったりしててこれまた面白かった。そりゃー、こんな本を読んでしまったら、もう書けないよ、文章読本なんて。