「ほんとはこわい「やさしさ社会」」読了。

「こどものもうそうblog」で紹介されてて興味を持ち購読。面白かった。取りあえずコレはと思ったトコを抜き出してみたい。

  • 「やさしいきびしさ」と「きびしいやさしさ」

現代的なやさしさの種類として、「やさしいきびしさ」と「きびしいやさしさ」の2種類があることを例にとる。
「やさしいきびしさ」は言い換えれば「愛のムチ」のこと。将来のことを考えて、今は厳しくしなければってヤツ。
「きびしいやさしさ」は「いま傷つけないように全力を尽くすこと」で、まァ非難的に言えば「甘やかし」ってヤツか。んで、コレの具体例が面白かった。
「謝るぐらいなら、最初からあんなことをするな」って言うのが、「きびしいやさしさ」の考えに基づいた発言。この発言が、近年になってよく聞くことがあるといったもの。著者の考えでは「謝罪することになると最初からわかっていれば、わざわざ人が不快に感じることなどしなかっただろう。どのようなことをしたら相手に不快感を与え、傷つけることになるか、すべてをあらかじめ知ることなどできない。だから謝罪することに意味があるのに。もし謝罪が受け容れられないなら、何もできなくなるではないか」という感想を持ったそうで…。
やべ、自分の思考って「謝るぐらいなら〜」に共感してたよ。そうだよ、謝罪の意味ってそういうことじゃん。この考えだと何もできなくなるって。

  • 楽しさと能力開発の葛藤

時代の流れにより、日本人はイエ社会から、自己目的社会に移り変わり、その中で「自己がもっとも神聖なものとなる状況」「楽しさ至上主義」「能力開発への情熱」が登場してきた。そして、友人、仲間関係でそれぞれが自分の「キャラ」を持ち、その「キャラ」で人と付き合っていく「キャラ」的人間関係のようなかたちで、予防的やさしさ(上記のきびしいやさしさ)ルールが施工される。
仲間内で、相手や自分が傷つかないように、できるだけ優劣差を創らないように行動する。反面、自己目的化してきた人生のために能力開発への情熱は優劣差の原因になる。
この葛藤の中で、「結合作用」と「分離作用」が引き起こる。
例えば4人のグループのうち、経済力が違うと買い物や食事に行く際にA,Bが行きたい店に、C,Dは経済力が伴わないため共に行動できない。コレが「分離作用」
もしA,BがC,Dに奢ろうとしても、両者の関係に優劣がつくため、敬遠され、結局は皆で安いとこに行くことになる。しかし、次は経済力の似通ったA,Bのみで出かけるということになりがちである。とすると、能力の開発は、似たような能力レベルのものとだけ付き合う傾向になることに繋がる。コレが「結合作用」
だけれども、コレを繰り返していくと、結局は独りになってしまう。
ここで、孤立せずに仲間集団を維持していく方法は、能力の違いを隠して、みんな対等と思える関係を作ることで、その方法の一つが「キャラ」的関係である。

  • 腫れ物な自己

アメリカ出身の留学生のスピーチの中に「アメリカ人は親しさを伝えるために挨拶します。でも、日本人は尊敬を表すために挨拶しているように感じます」と言うのがあったらしい。
日米云々は置いておいて、コレ、わかるわ。ヤンキーの挨拶って前者のニュアンスがつよいと思う。故にむかつく。アレは親しさアピールなのな。他人と距離感を図りかねるアタクシとしてはもっと他人行儀でお願いしたいところです。
また、対人恐怖症治療の草分け的存在である森田正馬氏いわく
「対人恐怖は、恥ずかしがることを以って、自らふがいないことと考え、恥ずかしがらないようにと苦心する「負け惜しみ」の意地張り根性である」
「対人恐怖の患者は、自ら小胆ではいけない、恥ずかしがってはならないと、頑張り虚勢をつけようとするために、恥をも恥とせず、却って益々恥知らずとなる」
「(他者から見られることを恐れる「視線恐怖」の患者には)自分は気が小さくて、人と面と向かって話しうことができない特にして、にらむことを稽古するものがある、……はなはだ無礼である」と。
なんか、最後はオチがついてる気がするけど、えーナニこのグサグサと突き刺さる言葉のナイフ。デスヨネー。だいたいのヘタレ人生がコレですよ。


コレでだいたい半分ぐらいかな?ちょっと見返してみて辛くなったので取りあえずココまで。強く生きるぜ。

ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書)

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