「ぼくの大好きな青髭」読了。

今日は父親が会議があったみたいなので、オレが出荷するターン。お昼をはさんだので待ち時間で読みかけの本を読了する。
薫クン四部作、最終巻。ちょっとミステリ風味で引き込まれる展開だった。
はじまりは珍妙な格好で街中を闊歩する薫くんの独白から。この時代、加速する社会の流れの中で若者達が自己表現に迷走していた年代。

「だいたいお江戸の昔から、新宿ってのは、田舎から出てきた人たちが江戸っ子に笑われまいと、超特急で流行の最先端を身につけたところなんだなあ。」

だが、もともと東京人の薫くんがこの奇妙な格好に身をやつしているのには理由がある。とあるマスコミ関係者と話をつけるために、この格好でいるのだ。
そして、そのマスコミ関係者は薫くんの知人である高橋君の自殺について取材に来るらしい。
この少し奇妙な取材が、新宿に蠢く若者達の、堂々巡りで失われゆく青春を探る一晩の出来事へのフラグだった。


この物語の中には、いくつかのコミュニティが絡み合っている。
若者を救済する使命感に燃えるコミュニティ。
そのコミュニティが挫折した時に、彼らを救済しようとするコミュニティ。
そのコミュニティを研究するコミュニティ。
そういった、若者達の青春を記録に残すことに救済を求めるコミュニティ。
そして、薫くんは彼らに翻弄されながら、それぞれの内情を知り、圧倒されゆく中、根幹にある「青髭」の謎に迫りゆく。
そして、薫くんが見た青髭は…。


まとまらないまま、印象に残った文を引用。

「あのね、ステファン・ツヴァイクかなんかがうまく書いてるわけだけれどね、この世の中には、戦争が始まって戦場に赴く兵士を送る駅頭の風景、といったものが常にあるらしいんだよ。つまりね、昨日までの甲斐性なしのばかな亭主や平凡極まる恋人が、一夜明けるや途端にお国のため悠久の大儀のため愛する妻や恋人を守るために戦いに出かける英雄になっちゃった、というので、女たちはもう突然熱烈な愛情に目覚めちゃって感動のあまり泣きながら見送ったりする、っていったようなものだね。自分達も突然にして英雄の妻になり恋人になっちゃったって言うわけなんだ。」

「そうなったらもう最後のわけね。それなのにほら、誰にだってあるんじゃない?こうね、子供が大きくなってきて、それで生意気になって、こう頭をあげて、ちっちゃなオンドリちゃんみたいに世の中に出てくるでしょ。そうすると、なんていうの、ヴェテランのオンドリさんたちが待ち受けてて、うん、きみのトサカは立派だね、なんてやたらと褒めるわけよ。そうすると嬉しくなっちゃって、オンドリちゃん、ますますトサカを立てて元気よく歩いてくわけ。ああ恥ずかしいわ。」

「あたしみたいに力のない人間は、何か大切なものを捨てないと生きていけないって、あたしは昔から思ってるの。」

あとがきより

(本文引用)「まあ考えてみれば状況も状況だった。科学技術の発展と経済成長を中心にしてとにかく物凄い加速度がついていたからね。それでまあ何事においてもそうだけれど、われわれ、自分を取り囲む状況の変化に理解が追いつかなくなると、いっそのこと全部ご破算にして一からやり直すほうが楽だという期待を持つってわけなのさ。世の中、いっそのこと、誰も理解できないほどのとてつもない変化が怒ってくれないか、いやきっと起こるぞ、なんて思うんだ。」
じっさい、この小説の舞台となった一九六〇年代の終りは、歴史の変化があまりにも急速に進んで、かえって変化の印象が曖昧になって行く時代の始まりだった、といえる。ひとつの事件が充分に完結しないうちに、たちまち次の事件が耳目を奪い、ひとつの問題が社会の関心を捉えきらないうちに、早くも次の問題が声高に叫ばれ、結局どのような変化も重なり合って意味を相殺し合う、という状況が始まりかけていた。風俗現象はあまりにも多すぎるために、時代を象徴する風俗というものがなりたたず、あまりにも多くのナが時代に与えられたために、時代は帰って個性的な名前を失う結果になっていた。いいかえれば、一九六〇年代の末から七〇年代にかけて、ひとびとは明確な時代像というものを見失いかけていたのであって、したがって、希望であれ絶望であれにくしみであれ、およそ同時代的な、持続する感情というものを持ちがたくなっていたのである。

これは今に至ってまだその通りだと思う。

ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)