「妊娠小説」「なぜケータイ小説は売れるのか」読了。

ちょっと前に読了はしてたんだけど、感想を書く気力がありませんでして、一念発起してまとめて書いちゃえ。まァグダグダな感想ですが。

妊娠小説 (ちくま文庫)

妊娠小説 (ちくま文庫)

最近ハマってる斉藤美奈子のデビュー作。面白かったトコを抜粋して感想を。

どんな分野でも、あるいは組織でもそうだけれども、運営が機動に乗って少し余裕が出てくると、だいたい似たような現象が起こる。

  1. 枝分かれがはじまり、下部ジャンルや派閥が形成される(分化)
  2. 女性が進出して、歓迎される(マドンナ現象)
  3. そのものが持っている性質の純度を求めようとする動きが出てくる(純化

小節一般でも、妊娠小説でも、企業でも政党でも同じである。

コレは逆に考えれば、新しいジャンルやムーブメントがどのあたりまで安定してきたかを図る目安になりそうですね。ゲームやら、ラノベやら、ケータイ小説やら。
…これらん中であんまり2番ってないか。いることはいるけども(むしろケータイ小説はそっちがメインか)

僕小説の興隆は文学のカラオケ化だ、と考えるとよくわかる。元々、需要から参加へ、鑑賞から実践へと向かうのは、文化芸術芸能のどんな分野にも共通した進化の方向ではあるだろう。カラオケで歌謡曲が「聞くもの」から「歌うもの」に転換したように、僕小説以降、小説は「読むもの」から「書くもの」に転換したのではあるまいか。

ココらへんはブログやケータイ小説がそのまんまそれですね。あとで言う「なぜケータイ小説は売れるのか」でも似たようなことが言及されていますが、ケータイの普及によって、大多数が気軽にネットに接続でき、簡単に発信者になれることでケータイ小説が流行ったのなんだの。


あと、コレは抜き出すと膨大な量になるんでまとめて言うんですが、まず、この本では「(望まれない)妊娠を取り扱っている小説」を「妊娠小説」と名づけ、そのジャンルの作品を分析しているんですが、その分析のひとつに、「物理的な分析」として読書行為の継続中、読んでいる今このときに何が起こるか。いつ妊娠小説が発動するか。つまり、いつ妊娠効果が発動するか=受胎告知の瞬間か訪れるかを、調べています。んで、その方法なんですが…。

妊娠小説の「スコアボード化」である。小説全体を九つのイニングに分け、1回〜9回のどの時点で受胎告知が行われるかをチェックする方法だ。(略)

  1. 小説の総行数xを数える。次に受胎告知の一行目を確定し、それが最初から何行目であるかを数えてyとする。仮にx=500 y=300としよう。
  2. 《(9×y)÷x》の公式を使って答えzを求める。(9×300)÷500=5.4となる。ココで得られた数字zの小数点以下を切り上げた値(四捨五入ではない)が、受胎告知のイニングになる。5.4の小数点以下を切り上げると6。
  3. さらに小数点以下第一位の数字が5未満なら「表」、5以上なら「裏」になる。

∴この小説の受胎告知の瞬間は「6回の表」に訪れることが分かる。

いまだかつて、だれがこんな分析をしたであろうか。すごすぎる。どう考えたらこうなるものか。
んで、確かに妊娠小説に関しては、物語り全体の序盤、中盤、終盤のどの時点で受胎告知が行われたかによってその作品のテーマやストーリーが違う。
だけども、まさかそれを野球に例えてこうも分かりやすく抽象化するとは…斉藤美奈子恐ろしい子……!!


あと、ちょっとした至言。

(前略)というのも、性教育の現場や避妊具メーカーの宣伝では「避妊するのが愛の証し」という着想が主流だったような気がするからである。どちらがより正しいかといえば「避妊するのが愛の証し」の方が正しい、と言うのはむろん嘘である。愛していようがいまいが、子供が欲しくなれば避妊する。それ以外の解はないだろう。避妊と「愛」を結びつけるのがそもそもの間違いだと思うのだけど、まあいいや、勝手にしてちょうだい。

最後で投げやりになったけども(笑)これはこの間の「鈴木先生」に通じるものがありますね。「今の世の中ではつけてすることが許されている」てヤツ。
あと、先日いっしょに飲んでた知り合いとの会話で「相手から選択を迫られた時、その選択肢に乗っている時点でダメ。その選択自体に疑問を持て」みたいな事を話してまして、まァ、そういうことですね。


さて、コレで斉藤美奈子の文庫は読破したなーとか思っていたら、先日書店で、ハードカバーモノを多数発見。………まァ余裕があったらね。

さァもうダルくなって来ましたが、ちゃッちゃと面白かったトコを抜粋しましょう。
その前に、この本について。「電波男」で強烈な電波を飛ばし、多数の喪男の共感と絶賛と、少数の良識ある常識人から非難の目をあびたような気がする本田透がなぜかケータイ小説ムーブメントを分析。「Deep Love」からはじまり、「天使がくれたもの」にて転換し、「恋空」や「赤い糸」などが大ヒットするケータイ小説。なぜココまで流行っているのかを現場、市場、各作品の内容など、様々な角度から解き明かす!……みたいな。そんな感じ。

  • まず、ケータイ小説に頻出する7つの要素。これは大半は既によく言われるものですね。

売春(援助交際)、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺、真実の愛。
ちょっと、上の「妊娠小説」とかぶるようなトコもあるんですが、ケータイ小説は「妊娠」にそれほどこだわってません。妊娠は災難のひとつとしてのガジェットでしかない。

自分、この作品は妹が借りたのを姉が読んだ感想でしか知らないので、ケータイ小説の典型だとの認識しかなかったんですが、著者のインタビューや、作品の構成から分析されたこの作品は「小説を読まない(読めない)若者に向けた現代における救済の物語」であることが分かる。語彙が簡単で少ないもの、展開が急なのも、テーマが物語上に直接語られるのも、「伝える」事を最優先にしたゆえの意識的な選択だったということ。
それゆえに、第2部以降の超展開は受け入れられず、それ以前の救済の物語しか取り上げられていない。
まァそんな感じ。


また、ケータイ小説が流行る風景として、「東京」と地方都市を比較し…

<東京=マスメディア=消費の中心>という情報を、地方の若者は徹底的に刷り込まれる。(中略)その世界は、あたかも「非日常の楽園」に見える。
それに対して、地方都市にはそれらの象徴がない。(中略)マスメディアが提供してくれる「リアル」がない。マスメディアが提供する「消費社会」というヴィジョンと、静かな地方都市の中で恬淡と暮らしている自らの周囲の現実が乖離するのだ。

地方都市では、目に見えない形で恋愛の商品化が完成している。
それは「金で売り解する」という形態ではなく、「恋愛=幸福」というドグマとなって彼女達を縛っている。
(中略)
そして、もし仮に東京に出られたとしても、閉塞するものは閉塞するのだ。

と語る。
マスメディアはハッピーな人生の象徴として、消費の楽園=東京と、幸福の思想=真実の愛というプロパガンダで洗脳し
消費すべきモノのない地方都市で、ありもしない信実の愛を求めた若者達は空虚な現実に信仰を求める。
それが…

レイプや妊娠や、不治の病といった不幸イベントを耐え忍んだ結果、「真実の愛」を見つければ全ての不幸なイベントがキャンセルされ、「幸福」になれるという信仰。

本田透が警鐘を鳴らし続けている「恋愛セックス資本主義」である。


また、現実感を見出せない空虚な人生に意味を持たせるために、自らの人生をケータイ小説という物語として書き起こし、その生活に意味を見出そうとしている。

人間の自我そのものが、実は「私という人間はこういう人間であり、こういう人生を送っていて、私の人生にはこのような意味があり、私にはこのような夢がある」という類の「物語」なのだから。
だから物語を否定すると、その否定が自分自身をも全否定してしまい、「私の人生には何の意味もない」というニヒリズムに到達してしまう。
信じる者は、救われる。信じない者は救われない。

その物語では、「恋愛セックス資本主義」に乗っ取って、真実の愛を見出す作者が描かれるだろう。


また、ケータイ小説と、ライトノベルの共通点と差異を見比べて、その読者を分析している。

つまり、同じ中学校・高校の教室に、ライトノベルを読んでいる生徒と、ケータイ小説を読んでいる生徒が同居しているということになる。
(中略)
ケータイ小説の読者は、まだ、自分自身という現実の物語に「真実の愛」が用意されているかもしれない、と信じている。
ライトノベル読者の多くは多分、自意識が発達しているのでそのようなことは信じていない。
(中略)
同じ教室にいる生徒が『赤い糸』と『涼宮ハルヒの憂鬱』とに分離している。そして、お互いをおそらくは敵視し、あるいは無視し、係わり合いにならないように自らのパーソナルエリアを守りながら生き続ける。
ニヒリズムに陥っていることに気付かぬままセックスを繰り返し、それが「人間的成長」であり、いずれは「真実の愛」にたどり着けると信じている少女。
ニヒリズムに陥ってることを自覚してしまったがために、空虚な現実の物語を演じることよりも創作の世界に癒しを求め、隣の少女から「キモイ」とか「オタク」とか呼ばれて白眼視される少年。
それが、今現在の学校、原題のティーンエイジャーの現実の風景なのだろうか。

あー、引用ばっかだな。訴えられるんじゃなかろうか。
とりあえず、いつもと同じような着地点に落ち着いた感があります。さすが電波男