「唯脳論」読了。

うう…ようやく読み終わったよ……。何でこんなに眠たかったんだろう。テクニカルタームが多かったからかしら?
岸田秀の唯幻論シリーズは興味のない歴史を取り扱ってても面白く読めたんだけどなァ…。
とりあえず面白そうなトコだけ抜粋。

「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」

この「唯脳論」の根本をなす言葉。
現代の人間は、ヒトのつくった社会の中で、ヒトのつくった建築物と、ヒトのつくった道路と、ヒトの設置した自然と、ヒトの作り出した数々の室内設備に囲まれた、脳が作り出した世界に生きている。

われわれの脳は、いつも同じものではない。絶えず変化しているのである。脳が世界を造っているにしても、それはつねに変る。哲学者がそれがいやで、静止した、永遠の真理がほしいというのであれば、死ねばいいのである。

なんという毒舌。脳の変化という点では「時間と自己同一性」で下記のように述べる。

だから、脳が刻々大きく変化する子供の時代には、社会責任がない。本人にとって、名前もない。幼少時の多くのことが後で記憶がないのは、ひょっとすると、ただ脳の未成熟さのせいばかりではなく、後の脳の変化が大きいために保持できないのであろう。配線はまだ不十分だが、神経細胞は一歳ぐらいで数がもうそろっている。三つ子の魂逆までというように、三歳以降の発達は程度の問題に過ぎないとも言える。

ああ、これは自分の考え方の一つでもあるわ。ちょっと極端な話、記憶にない過去の話は他人事として考えてる節があるのよ、自分。

年齢によって考え方が変化することも、われわれはよく知っている。明治の頃、年齢層と信心の相関を調べた統計の話がある。若い層ほど、信心の率が低かったので、将来わが国では宗教の勢いが低下すると予測した。昭和になって同じ統計を取ったら、全く同じ統計結果が得られた。これを年齢差というのである。年齢差と時代差は、ヒトに関する統計では、よく誤解を起こす。

これは面白いなァ。年齢と共に思考のベクトルが一定方向に収束していくんですかね。

動物に意識があるかどうかは、西洋では議論の余地のある問題である。一つにはキリスト教がヒトと動物をはっきり分ける考え方を教えたからである。ヒトは理性と自由意志と良心を持つ、と。(中略)一方、理性はともかく、自由意志とか良心が動物にあるとかないとかいったところで、自分の意思や良心ですら、あるのかないのかはっきりしないのが、日本人だろう。

ええ、この考え方は全く持って自分の考え方ですね。そうか、日本人特有なのか…。キリスト教徒は自らを特別視しすぎです。


あと、視覚と聴覚の受け取る脳の違いについての考察が面白い。が、やっぱりテクニカルタームが多くて眠かったよ…。
視覚は瞬間だが、聴覚は時間であるとか。


まァ正直「バカの壁」を先に読んでると新鮮味がないのも眠くなった理由かしら。ともかくエポックメイキングとなった一冊でした。

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

唯脳論 (ちくま学芸文庫)