「ミスター・ミー」読了。

08年度トヨザキ社長イチオシの作品でゴザイマス。


世事に疎い書痴老人が、とある書物に関する情報を収集するうちに、インターネットにはまってしまい、奇妙な思い違いは不思議な物語となる。
そしてフェランとミナールという二人の若者の奇妙な事件とルソーとの邂逅、とある教授の不器用な恋模様。
奇妙な重なりを見せる3つのエピソードは、予想もしない繋がりを見せる…。


とりあえず意図せずにエロエロワールドに足を踏み入れる天然おじいちゃんは、ラノベの主人公もびっくりの展開です。
最終的にクスリきめるは、スワッピングに参加するわと破廉恥学園。でも本人はまったく気付いていない。どんだけマイペースなんだと。
フェランとミナールの関係は、ホット・ファズやシェーン・オブ・ザ・デッドのサイモン・ペグとニック・フロストみたいで、かなりおかしい。って言うか、喋るなミナール。
喪男妄想大暴走な大学教授エピソードは、頭でっかちなためにすべて脳内で恋愛をシミュレートした末に、最終的には理知的におさまってしまうとこがおかしくて、哀しい。

(略)人はみな自らのドラマを紡ぎ出す作家なのだろうかと思い始めていた。本人は自作のドラマにすっかり惚れこみ、何ら違和感を感じてもいない。だがひとたび友人達によんで聞かせたなら、火にくべられて当然の代物と判明するのではないか。人は自分の人生をほとんどいつも自分の内側からしか見ていない。多分われわれは昔のハリウッド映画に出てくる、しがない看板書きのようなもの、探偵事務所のドアの内側から、ガラスに逆さ文字を苦心しながら書いているに過ぎない。その書かれた文字を我々は常に裏側から読むばかりで、向こう側にある外の世界にはまるで無頓着なのだ。

時に人はどこかで見聞きした虚構世界に身をゆだねることが出来るのだ。恋をしているとき、人は本や映画や噂話から仕入れた役柄を演じる、とはよく言われることだ。人間の存在自体が模倣と感応に支配されているというものさえいる。我々は皆、無数に存在する穏やかな拘束や見えざる圧力に絶えず影響を受けているのだと。わたしもこの数ヶ月のあいだに、気がつけば模倣作品(パスティーシュ)と化していたのだ。

では、その幻想は不要なものなのか?
それは人に見せるべきではないが、けして軽蔑されるべきではないのではないか。


とか何とか。


ああ、あと

きみとの文通では、話が横道にそれるのを嫌うなんてことはなかったよね。昨今はかなりの人が目的地に着くことばかりに囚われている、そうは思わんかね。エンディングだけが重要で、そこに至るまでの経過など煩わしい時間稼ぎだといわんばかりに結末に向かって突き進むだけで、プロセスが肝心だなんてこれっぽっちも感じていないのさ。とんでもない話だよ。我々の場合は、自分たちの目指す真の目的地に慌てて駆け込むまでもないと承知しているからね。

ってのがかなり最初のほうで言われてて、おかげで3つの物語の紆余曲折を楽しんで読めたよ。

ミスター・ミー (海外文学セレクション)

ミスター・ミー (海外文学セレクション)

さて、次は文学少女シリーズかなー。