「飛ぶ教室」読了。

本日は父親の代わりに出荷に行くも、待ち時間中にもっていった本を読み終わって手持ち無沙汰なので、今のうちに感想を。

飛ぶ教室 (ケストナー少年文学全集 (4))

飛ぶ教室 (ケストナー少年文学全集 (4))

"文学少女"にて取りざたされていたので興味を持ち、姉が持っていたので貸してもらう。


本編の前に2つの前書きにて著者であるケストナーがこの児童文学を書くに当ってのいきさつと伝えたいことを読者に話しかけるという、珍しいというか、たぶん児童文学っぽい書き出し。
その前書きのなかで、ケストナーはとある著者から送られた児童文学を読み、その奇麗事ばかりの作り話に腹を立てます。

その著者は、自分の本を読む子どもたちをだまして、はじめからおわりまでおもしろがらせ、楽しさで夢中にさせようとします。このずるい作者は、子どもというものが、極上のお菓子のこね粉でできてでもいるようにやるのです。
どうして大人はそんなに自分の子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう? そして、子どもは時にはずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?(この機会に私はみなさんに心の底からお願いします。みなさんの子どものころをけっして忘れないように!と。それを約束してくれますか、ちかって?)

ああ、なんだかS60チルドレン 1 (イブニングKC)を思い出すわい。


著者の主張するとおり本編ではただただ楽しいことだけでなく、寄宿生活の中で、他校との抗争や生い立ちの不幸。
澱のようにたまった感情。前触れなく起こる悲しい出来事が子どもたちにふりかかります。
だけれども、彼らは悲しみに打ちひしがれるだけではなく、涙をこらえ、知恵をしぼり、勇気とともに立ち上がります。
それに、世界というあまりにも大きな理不尽に打ちのめされそうなときには、かつて彼らと同じ子どもであったことを忘れずにいる大人たちが、がんばった彼らには手を差し伸べてくれることを伝えます。


子どもには前者を、大人には後者を伝えようとしているんじゃないかなァ。
さて、今自分はそんな大人になっているだろうか? 今からでもなれるだろうか?